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フリーペーパーの短編

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  • 2024年5月18日
  • 読了時間: 19分

以前、文学フリマ東京の自ブースで配布したフリーペーパーに掲載した短編を、こちらに掲載することにしました。お読みいただけると幸いです。


プロトコル・S


1

 由良聡美は事務室に戻ってくるなり、自席に座り、「あー、暑い」と言いながら、ペン立てにあったうちわで、ぱたぱたと自分の顔や首を扇ぎはじめた。

「夏はずっと先なのに……。もう日本は夏と冬だけになっちゃったんじゃないですかね。冬服が終わりと思ったらもう夏服を出さなきゃって感じで、春物や秋物がずっと箪笥の肥やしですよ」

「あのなあ……」

 聡美の隣の席でメガネを拭いていた氷川進が、大きなため息をついた。

「いつもいつも帰ってくるなりべらべらと。お前はいちいち感情を声に出さないといけないのか?」

「仕方ないじゃないですか、本当に暑いんだから。空調の効いた室内で仕事をサボっていた先輩とは違うんです」

「誰がサボっているだって?」

 氷川の表情が険しくなった。

「先輩ですよ。そんな雑誌なんか読んで」

 聡美の視線の先、氷川の机に、アニメ調の少女が表紙に描かれた雑誌があった。

「先輩、そういうのがお好きなんですね」

 氷川は顔をしかめた。

「これも仕事だ」

「嘘だ。こんな萌えキャラが、どう仕事と結びつくんですか?」

「俺の今度のクライアントからの要望だ」

「えっ、そうなんですか?」

「その目は、信じてないな?」

 氷川からの冷たい視線に、聡美は慌てて首を振った。

「いえいえ、誰よりも敬愛する先輩の言葉ですよ。もちろん鵜呑みにしますって」

「それもどうかと思うがな……」

 氷川は雑誌のページをめくった。表紙の雰囲気とは裏腹に、本文は文字が多く、数式らしきものまで記載されていた。氷川に似つかわしい硬派な内容のようだ。

「お、思ったより難しそうですね」

「コンピュータの雑誌だが、今度のクライアント、VRやらなんやらに興味があるらしい」

「ぶい、あーる?」

「バーチャルリアリティ、仮想現実感。聞いたことぐらいあるだろ」

「ええ、まあ……」

 テレビなどで紹介していたことがあるような気もしないでもないが、それがなんであるかはよくわかっていなかった。スマホも動画と地図アプリくらいしか扱えない聡美にとっては、遠い世界の話であることだけは事実だ。

「いろいろ参考になることが書いてある。お前も読んでみるか?」

「それはまた別の機会に……」

 これ以上氷川と話していると、面倒なことになりそうだ。さっさと話を切り上げるにかぎる。

「あっ、そろそろ報告書を書かないと……」

 逃げるように氷川から目を話した直後、

「仕事といえば……、そうだ」

 氷川が書類を差し出してきた。

 やっぱり面倒なことになってきた!

「……新しいクライアントですか?」

 恐る恐る尋ねると、氷川はこくりとうなずいた。

「来るのは明日だが……由良、頼めるか?」

「毎度のことながら、急な話ですね」

「また課長が割り振りを忘れてたんだ」

 事務室奥にある課長席を見ると、お茶をおいしそうに飲んでいる伊勢崎課長の姿があった。

「私だって色々忙しいんですよ。今日も何時まで残業するかわからないくらい、たくさん仕事が残ってるんですから」

「それは由良だけじゃない」

 氷川が向けた視線の先には、〈外出中 夜戻り〉の文字が並んだ在席表があった。

 聡美も渋い表情で在席表を見て、それからスポーツ新聞を読みはじめた伊勢崎課長を一瞥して、ため息をついた。

「ここが万年人手不足なのはよくわかってますから」

 と、氷川から書類を受け取った。聡美も社会人三年目、世間に数多ある理不尽に対して、諦めの境地に達していた。

「助かる」

 氷川が頭を下げてきた。

「まあ、しようがないですよ」

 先輩からずいぶん頼られるようになってきたと認識できただけでも、引き受ける価値はあるというものだ。

 早速、聡美は資料をめくり始めた。

 クライアントの名前はドナイエル。年齢は四十歳。出身はナグール国。そして職業はさすらいの剣士……。

 もちろん、こんな国名も職業も聡美の世界にはない。

 聡美たちのクライアントは異世界からやってくるのだ。

 世異世界とはアニメや漫画の中にしか存在しない空想の産物だと、世間では思われている。しかし、異世界は実在する……しかも無数に。太古の昔より限られた者のみがその事実を知り、歴史の影で様々な関係が築かれてきた。時には友好的に、時には敵対的に。その一端が神話やおとぎ話となって本来の意味を失った形で残されている。

 現在、異世界との交流を管理しているのが、聡美や氷川たちが所属する【異世界おもてなし局】だ。そのミッションは、異世界からの訪問者をもてなし、彼らがこの世界に来た目的をスムーズに達せられるよう支援することである。

 資料にはクライアントの似顔絵も添付されていた。いくつもの切り傷があり、強い眼力で睨みつけている。いかにも歴戦の猛者といった感じだ。

「気難しそうな方ですね」

「顔で判断するな、いつも言っているだろ」

 氷川は厳しい口調で注意してきたが、人は見た目が九割なんて言っている人もいるくらいだ。第一印象は侮れない。

 難しい仕事になるかもしれない。やっぱり辞退しようかしら? なんて考え始めた矢先、氷川が言った。

「大丈夫、プロトコル・Sだから」

 これを聞いて、聡美の気分は一気に軽くなった。プロトコル・S。それなら問題ない。明日は珍しく早く帰れそうだ。


2

 翌日、聡美はクライアントとの待ち合わせ場所である、都内の人気のない小さな神社にいた。

 今日も季節外れの暑さで、日陰にいないと溶けてしまいそうだ。

「暑いから早くして欲しいんだけど……」

 手うちわで自身の首元を扇ぎながら腕時計を見る。予定時間は過ぎていた。

 時間にルーズなクライアントは面倒な連中が多い、というのが聡美の経験上の法則だ。これが普通の仕事だったら憂鬱な気分になるところだが、今回はプロトコル・S。気楽でいられる。

「早く仕事が終わったら、たまには映画でも観て帰ろうかな」

 などと、仕事終わりのことを考えながら待つこと十分、聡美の目の前に光り輝く渦が現れた。これは異世界との行き来を可能にする扉のようなものだ。

「やっとか」

 聡美は姿勢を正した。

 光の渦から大きな皮袋を背負った一人の男が現れた。

 資料の似顔絵と同じ顔。職業がさすらいの剣士とあって、筋骨隆々な体つきだ。

 聡美はクライアントに向かって深くお辞儀した。

「ドナイエル様ですね。わたし、異世界おもてなし局の由良です」

「拙者、ドナイエルと申す。遅れて申し訳ない」

 ドナイエルに対する好感度が大きく上がった。ダンディーな低音ボイスに痺れたわけではなくて、遅刻したことを素直に謝罪してくれたからだ。普段は、やたらプライドが高く、自分の非を一切認めようとしないクライアントが多くて苦労している。

「いえ、大丈夫です。ようこそ、わたしたちの世界へ、歓迎いたします」

「かたじけない、今日はよろしく頼む」

「こちらこそよろしくお願いいたします。ドナイエル様の希望を最大限叶えられるよう、全力を尽くします」

「拙者がこの世界に来た目的は……」

「存じ上げております。準備は万端です」

「すばらしい。この世界の案内人は優秀だと聞いていたが、本当だったようだ」

 お世辞かもしれないが、褒められて悪い気はしない。もてなす方も気持ちよく仕事ができるというものだ。

「早速この世界をご案内したいところですが、まずは腰のものを預からせてください」

 職業上、当然というべきか、ドナイエルは腰に剣を差していた。

 国際都市東京、ドナイエルの毛皮の服は個性で押し通せても、刃物は一発アウトだ。

 ドナイエルは剣を庇うように身構えた。

「何故だ? これは拙者の命の次に大事なもの。たとえ一瞬でも手放すわけにはいかぬ」

「わかってます。でもこの世界では武器を持って歩いてはいけないんです」

 ドナイエルは目を丸くした。

「なんだと! ではこの世界の住人は皆、丸腰しだと言うのか? 魔物や野盗に襲われたりしないのか?」

「大丈夫です。この世界はそんな物騒なところじゃないですから」

 どうやら、ドナイエルはなかなか殺伐とした世界からやってきたらしい。そういう人物と出会うたび、この世界に生まれてよかったと思う。

 ドナイエルは周囲を見渡した後、悩ましそうに首を捻った。

「まあ、貴女の言う通りなのだろう。だが、やはり丸腰になるのは抵抗が……」

「規則に従っていただかないと、街へお連れするわけにはいきません」

「拙者の目的も果たせぬ、ということだな」

「はい」

 ドナイエルはしばし逡巡する素振りを見せたが、

「わかった、この世界のしきたりに従おう」

 と、剣を聡美に渡してきた。

「ご理解いただき、ありがとうございます」

 聡美は丁寧に剣を受け取った。

 ドナイエルが素直な人で良かった。ここもよく揉めるポイントなのだ。先輩の言う通り、人は見かけで判断してはいけない。

 

 神社を出て、ドナイエルを連れてやってきた場所は、浅草近郊のとある剣術体験教室だった。

 ドナイエルがこの世界に来た目的、それはサムライに会うというものだ。

 クライアントをもてなすと一言で言っても、彼らの要望は非常に多岐に渡り、また、それぞれに価値観も大きく違うため、容易なことではない。それぞれのクライアントに適した案内プランを練り上げ、入念な準備が必要だ。とてつもない負担でありブラック職場化する原因の一つだ。

 そこで、よく似た目的を持ったクライアント向けに、事前準備から当日のアテンドまでの一連の流れを手順化したものが用意されている。

 その一つがプロトコル・S、つまりサムライに会いたいクライアント向けのパッケージだ。逆に言えば、パッケージ化されるほど、サムライに会いたい異世界人は多い。

 そんな彼らは、ドナイエルのような剣士や武闘家が多いので、甲冑や新撰組の法被を着たコスプレを見せただけでは満足しない。そこでプロトコル・Sでは、昔の剣術を現代に伝える剣術教室と提携して、実際の剣術にも触れてもらうのが目玉となっている。あとは追加オプションとして、映画館を貸し切った名作時代劇の鑑賞会や、お城見学ツアーなんてものもある。

 着流しに着替えたドナイエルが聡美のところへやってきた。ハリウッド俳優がサムライ役をしたらこうなるんだろう、と思える姿だ。

「おお、これがサムライ……」

 ドナイエルは興味深そうに自身が着た着物をジロジロと見ている。

「ドナイエル様、お似合いですよ!」

「そうか」

 ドナイエルは満足そうに笑った。

 奥の道場から、体験教室の指南役がやってきた。聡美とはすっかり顔馴染みだ。

「由良さん、よろしく」

「こちらこそよろしくお願いいたします。今日はこの方、ドナイエル様です」

「よろしく、ドナイエルさん」

 ドナイエルは指南役が差し出した手を強く握りしめた。

「拙者、ドナイエルと申す」

 ドナイエルは指南役を品定めするかのように凝視した。聡美だったら恥ずかしくて逃げ出したくなるような状況だが、指南役は動じる様子もなく、

「ドナイエルさん、日本語がお上手ですね」

 と、ニコニコ微笑んでいた。この状況にはすっかり慣れているようだ。

 ちなみに、指南役はドナイエルが異世界人だとは知らない。一般人には異世界の存在を秘密にする、聡美たち局員が厳守するルールの一つだ。だから指南役にはドナイエルことを外国人だと伝えているし、聡美自身は旅行代理店の人間だと思われている。更に言うと、どうして異世界人のドナイエルが普通に聡美や指南役と言葉を交わせているのか、という疑問については、実は局員であるにも関わらず聡美も知らない。異世界に存在する『普通じゃない技術』によるものらしいが、難しい話は苦手なので、ただ受け入れるようにしている。

 ドナイエルの観察が一通り終わると、指南役は腰に差していた刀を鞘から抜いた。銀色に光る刀身が現れた瞬間、ドナイエルは子どものように「ヤッホー!」と叫んだ。

「これが刀! 拙者の得物とはかなり違う」

「振ってみますか?」

「良いのか?」

「もちろん。ではこちらへ」

 指南役に案内されて、ドナイエルは道場へ向かって行った。

 指南役や刀を見て興奮するクライアントは見慣れた光景だが、それでも彼らが喜ぶ姿を見るのは聡美も嬉しい。

 しかし、感慨に浸っている暇などない。ドナイエルの剣術体験中は聡美にとって貴重な空き時間。他の仕事を進めておこうと、聡美は近くのテーブルに座ってノートPCを立ち上げた。

 大量に届いていたメールにげんなりしつつも、一通一通目を通していると、突然道場の方から怒鳴り声が聞こえてきた。

「話しが違う!」

 ドナイエルの声だ。驚いて顔を上げると、道場から、むすっとした表情を浮かべたドナイエルが歩いてきた。

「どうしました、ドナイエル様」

 ドナイエルは道場の方を指差して、

「あれはサムライじゃない」

「えっ?」

「あの指南役、拙者が話に聞いたサムライと全然違う」

「どういうことですか? あの方こそサムライ、武士道の体現者ですよ」

 思わず強い口調で言い返してしまったが、理はこちらにある。指南役は伝統ある流派の師範でもあり、まさに現代のサムライと呼ぶに相応しい人物だ。異世界人から、偽サムライと言われる筋合いはない。

 しかし、ドナイエルも強い口調で返してきた。

「いや、違う!」

「どこが、どう違うんですか?」

「だって、彼が刀を振るっても、炎や水が出ない」

「……はい?」

 炎、水? なんのこと?

「サムライは技名を叫びながら、刀からさまざまな超自然現象を起こし、敵を倒すのだろう。彼はそんな素振りを見せなかった」

「ええっと、何言ってるの?」

 敬語も忘れて訊き返してしまった。それほどに訳がわからなかった。

「だから、サムライの話だ。拙者はこれを見て、サムライに憧れたのだ」

 そう言って、ドナイエルが皮袋から取り出したのは漫画本だった。

「こ、これは……」

 表紙を見て、聡美はすぐに気づいた。これはさまざまな超剣技や超体術を駆使して鬼たちを滅していく漫画だ……。

 この漫画が話題になった時、聡美も徹夜して読んだくらいにハマった。

 どうしてこの漫画が異世界に流布しているのか? まあ、心当たりがないわけではない。……それはともかくとして、

「ええっと、ドナイエル様。その本に出てくるのはサムライというよりは……」

 ドナイエルは少女漫画の登場人物のように漫画本をギュッと抱えた。

「拙者は、この本に出てくる技を一度でいいからこの目で見てみたいのだ!」

 ちょっと可愛い……じゃなくて、本当に、その漫画に出てくるような技を見たければ、別の異世界に行った方が良いのではないか? 異世界にはもっと凄まじい超自然現象を起こせる連中がごまんといるからだ。

 しかし、ボロボロになった漫画本を抱えるドナイエルの姿を見ていると、言葉が出なかった。

 おそらく何十回、何百回と漫画を読み返していたのだろう。

 実際問題、異世界へ行くのは非常に大変な行為であり、ドナイエルは多大な苦労の末、こうしてわたしたちの世界に来てくれたのだ。できることなら満足して帰ってもらいたい……。

 そのために、わたしは異世界おもてなし局に務めているのだから。


3

 ドナイエルがもはや剣術教室に興味を示さなかったので、とりあえず、オプションとして用意しておいた映画館へ向かった。

 本来であれば、ここで名作時代劇を上映する予定だったが、「これはサムライではない」とドナイエルから文句を言われてしまう可能性が高い。映画館側に頼み込んで、例の漫画の劇場アニメを上映してもらうことにした。映画館はおもてなし局と専属契約をしているので、この辺りの自由は利く。

 映画が始まった。

 シアター自体はそれほど広くないが、観客はドナイエルただ一人。なかなか贅沢な空間である。

 最初はボリボリとポップコーンを頬張っていたドナイエルだったが、戦闘シーンになると、その手が止まった。主人公やその仲間たちが繰り出す数々の剣技を食い入るように見ていた。すっかり夢中のようで、終盤に差し掛かると、大声で主人公たちを応援するほどだった。

 大変満足していただけたようだ。

 映画が終了して、ドナイエルがシアターから出てきた。まるで自分が戦っていたかのように、額に汗がびっしりだ。

「いかがでしたか?」

 ドナイエルは興奮した様子で、

「素晴らしい、この世界に来て良かった」

 と、言いながら、剣を振るう仕草を繰り返していた。

「良かったです。じゃあせっかくなのでお土産でも買っていきますか? 近くにグッズ売り場もありますよ」

 これで満足して、気持ちよく元の世界へ帰ってもらえないだろうか。

 しかし、ドナイエルは素振りの手を止め、考え込むように首をかしげてしまった。

「これはアニメというやつで、虚構なのだろ」

「まあ、そうですが……」

 ドナイエルは首を左右に振った。

「ダメだ。拙者はリアルなサムライを求めているのだ」

 聡美は危うく「何言ってるんだお前は」と口にしそうになった。

 アニメを虚構というのなら、ドナイエルがバイブルとして崇め奉っている漫画も虚構に過ぎない。

 しかし、どんな理不尽な事であってもクライアントに暴言を吐いたら、職を失う。聡美は出かかった言葉をぐっと飲み込みこんだ。

「えっと、その……、リアルと言われましても……」

「無論、生の本人たちに会えるとは拙者も考えていない」

「そりゃそうでしょうとも」

「ただ、拙者としては、一度でいいからあの技を受けてみたい」

「はっ?」

「技の真の力を理解するには、やはり自らの体で受け止めてみなければ」

「ええっと……」

 ダメだ。もうわたしの手には負えない。

 聡美は、「少々お待ちください」とドナイエルに伝えて、劇場ロビーを飛び出した。

 廊下の隅まで行って、電話をかける。相手はもちろん氷川だ。

 氷川はすぐに出た。

「どうした?」

「先輩、助けてください……」

 それから聡美は、ドナイエルと合流してから映画館に至るまでの経緯を説明した。

「……なるほど」

 聡美の説明が終わると、さすがの氷川も困惑したようだ。

「単純なプロトコル・Sだと思ってたんだが、こうなると少々面倒だな」

「ですよね……素直に別の異世界を案内するのが無難かな、と」

「それが妥当だろう。でも……由良はそれに納得してない、ということだな」

 さすが先輩。わたしのことをちゃんと理解してくれる。

「ドナイエルさんがせっかく来てくれたのに、満足してもらえないのは悔しいです」

 せっかくわたしたちの世界に興味を示し、大変な苦労をして来てくれたのだ。できることならこの世界をもっと好きになってもらいたい。

「ただ、どうしていいのか……。クライアントに無駄な時間を費やさせるのも申し訳ないですし」

「そうだな……」

 先輩なら良い知恵を出してくれないだろうか、と期待を込めて耳に意識を集中していると、突然氷川が大声で、

「あっ、そうだ!」

 と叫んだので、耳がジーンと痺れた。

「急に大声出さないでください……。何かいい案でも浮かんだんですか?」

「いや……でも、どうだろうな」

 氷川の声のトーンが下がってしまった。

「何か問題があるんですか?」

「上手くいくかどうか、今一つ確信が持てない」

 先輩はあまり自信がなさそうだが、今はそれが藁だとしてもすがるしかない。

「なんでもいいから教えてください。もうこっちは手がなくて、だめ元で試すしかないんです」

 少しの沈黙の後、氷川は言った。

「……まず大前提として、リアルに刀から炎や水を出せる人間はこの世界にはいない」

 教えてくれる気になったようだ。本当に良い先輩だ。ありがたい。

「そんなことわかってます。だから困ってるんです」

「そこで由良が映画館へ連れて行ったのは良い選択だと思う。でもクライアントはもっとリアリティを感じたいと言ったわけだ」

「まあ、そんなところです」

「だからもう一工夫加えれば、100%とはいかないまでも、ある程度、クライアントを満足させられるかもしれない」

「どういうことですか?」

「えっとだな……」

 それから氷川は、思いついた考えを説明してくれた。しかし、それを聞いた後、聡美は首を傾げてしまった。

「そんなので上手くいくんですか?」

「さあ。俺も聞きかじりで、そこまで詳しくないから」

 氷川が自分の考えを出し渋った理由が理解できた。しかし、わずかでも可能性があるのであればやってみる価値はある。


4

 薄暗い空間に、ドナイエルは立っていた。

 ここはどこだ? とあたりを見渡していると、不意に、刀を持った少年が現れた。

 彼の姿を見た瞬間、ドナイエルは全身が歓喜に震えるのを感じた。その少年こそ、あの漫画を手にした時からずっと会ってみたいと思っていたサムライだったのだから。

 少年が刀を構える。

 ドナイエルも身構えた。

 サムライの力、この体で見定めてやる。

 少年が刀を振り上げる。そして技名を叫びながら刀を振り下ろすと、刀身から炎が巻き起こり、ドナイエルへ迫ってきた。

 たちまちドナイエルの視界が真っ赤に染め上がった。

 全身が激しく燃えていく感覚。

「うぉおおおお!」

 ドナイエルは叫んだ、苦痛ではなく興奮によって。

 

 聡美の前には、ヘッドマウントディスプレイをつけたドナイエルが立っていた。

 ドナイエルが腰を落として身構えたかと思ったら、突然、

「うぉおおおお!」

 と叫び出したものだから、聡美は驚きと恐怖で体が縮み上がった。

 ドナイエルが激しく身悶えを始めた。

 危険な目に遭っているんじゃないだろうか? と不安に思っていると、ブザーが鳴り響いた。

「体験終了です」

 と言ったのは、アミューズメントパークの接客員だった。

 これは、アニメ世界を体験できるVRアトラクションだ。ドナイエルはヘッドマウントディスプレイを通じて、例のアニメを視聴していたのだ。

 接客員がドナイエルのヘッドマウントディスプレイを外した。

 ドナイエルは呆然とした表情で、辺りをキョロキョロと見渡した。

「ここは?」

 聡美もドナイエルの近くに駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

 するとドナイエルは、聡美の両手をぐっと掴んで、上下に激しく振った。

「ありがとう、最高だった」

 なんと、ドナイエルは涙を流していた。とても感動したようだ。

「これで、拙者は更に戦士の高みを目指せる。由良殿、本当にありがとう」

「そ、それは良かったです……」

 内容は映画と大して変わらないはずなのに。VRはそんなに違うものなのだろうか? 聡美にはよくわからなかったが、とにかくドナイエル本人はとても満足してくれたようだ。

 

 夕方、聡美は事務室に戻ってきた。

 自席に座るなり、どっと疲れを感じて、深いため息が出た。

「大変だったな」

 と、隣の氷川が声をかけてきた。

「ほんとうに疲れました。プロトコル・Sだから楽勝だって思ってたのに」

「俺も油断してた。事前リサーチをちゃんとやるべきだったな」

「マニュアル通りって難しいですね」

「異世界とはいえ、相手は人だからな」

「たまに人じゃない時もありますけど」

 と、聡美は言ってくすりと笑ったが、氷川の表情はまったく変わらなかった。

「それで、クライアントは満足していただけたのか?」

「えっ、あっ……はい。帰る時までずっと興奮してVRの話をしてました。せっかくなので、わたしも体験してみたんですけど……酔いました」

「合わない奴はいるからな。俺もあまり得意じゃない。あのVRのディスプレイをつける時、メガネが壊れるんじゃないかって心配になる」

 と言いながら、氷川は自身のメガネのフレームを撫でていた。

「でも、映像であることは変わらないのに、どうしてドナイエルさんは映画以上にVRに興奮したんでしょうか?」

 氷川はデスクにある、表紙がアニメキャラの雑誌を指差した。

「雑誌の受け売りだが、映画は三人称、VRは一人称で、没入感が違うらしい」

「はあ……」

 さすがおもてなし局のエース、少し本を読んだだけですぐに実務に活かせるとは! 聡美は改めて氷川のことを尊敬し直した。

「まっ、とにかく、クライアントが満足してくれてよかったよ」

「はい。久しぶりにいい仕事ができたって思いました」

 ドナイエルは帰り際、またこの世界に来たいと言ってくれた。おもてなし局の管理官にとって一番嬉しい言葉だ。

 しかし、今日は疲れた。残りの報告書をささっと片付けて早く帰ろうと、パソコン画面に向かったその時、

「おお、由良くん」

 声がした方を見ると、伊勢崎課長が近づいてくる姿が見えた。

「課長?」

 ……嫌な予感しかしない。

「ちょうど良かった。伝えるのすっかり忘れていたんだが、明日来るクライアントだ」

 伊勢崎が書類を聡美の机に置いた。

「えっ、明日! 急すぎですよ!」

「安心しろ」

 伊勢崎はにやりと笑った。

「このクライアント、プロトコル・Nだから」

 
 
 

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